今回はスタッフが完全趣味で書いています。
もともと本好きなんですけどね、やっぱり社会人になって少し熱が冷めていたときもあります。
ソース堺東岩﨑です。
しかしながら、ここのところ外にも出られないんで、久々に読書熱が。
パラパラ流し読みして、面白かったのが、日本中世を研究している本郷和人さんの『日本史のツボ』
この人の日本史の解説は、素朴な、でも言われてみたらそうだよなあ、という感覚を大いにくすぐられます。
たとえば律令制について。
ご存知のこととは思いますが、律令制とはときの大帝国、唐の政治システムを指します。
後進国だった日本は、唐のシステムを真似ることで自国の強化を図ろうとしたのでした。
西暦701年に大宝律令が制定された、というのは教科書にもでかでかと載っています。
律令制のもとでは、土地はすべて王家のものとなり、整備された戸籍によって、人々に分け与えられたのです。
しかしながら、この律令に則した政治は、すぐに廃れてしまいます。
土地はすべて公領、という大原則は早くも743年の墾田永年私財法によって覆されてしまいます。
40年ほどしか律令制は機能しなかった……と読むのは早合点。
本郷さんによれば、律令制は40年しか機能しなかったのではなく、そもそも機能してない可能性が高い、のだそう。
律令制による班田収授法は、非常に厳密で、男子は二段、女子はその3分の2、これが6年にいちど更新されて、領民が死ぬと土地は王家に返却。
これだけ複雑なシステムに加え、当時の日本には字を読める人はわずかばかり。中央政権のエリートが理解していたとしても、領民はおろか、地方の役人にまできちんと制度が伝わっていたか、常識的にはかなり怪しい、とのことなのです。律令制は、あくまでもスローガン以上のものではなかったのではないか。
文書とは概ね、権力のある、エラい人が残すものです。それが、現実のあるがままを伝えているとは限らないのですね。勉強になりました。
ソース堺東 岩﨑 友寛